あの人と行く、なるほど江戸博

作家・橋本治とめぐる高度経済成長期の東京 せわしなく駆け抜けた時代の「風景」を取り戻す旅

「高度経済成長」にはどんなイメージがありますか? 1956年の『経済白書』に登場した「もはや戦後ではない」は流行語となり、住宅、交通網、電化製品等々、あらゆる分野において「東洋の奇跡」と呼ばれるほどの発展を遂げたこの時代からは、熱気溢れる人々の様子が浮かんでくるのではないでしょうか。そして、その様子を世界に知らせたのが、1964年に行われた東京オリンピック。世界でも稀に見るスピードで成長し続けたかつての日本から、現在の私たちは何を学ぶことができるのでしょうか?
今回は、幼少期から東京に住み、街と人の移り変わりを見つめてきた作家・橋本治さんをお迎えし、東京都江戸東京博物館(以下、「江戸博」)に展示されている「よみがえる東京」、そして2015年3月28日のリニューアル後に新設される高度経済成長期の展示についてお話をうかがいます。取材・構成:武田砂鉄 撮影:田中由起子

橋本治(はしもと おさむ)

1948年、東京生まれ。東京大学文学部国文科卒。イラストレーターを経て、1977年、小説『桃尻娘』を発表。以後、小説・評論・戯曲・エッセイ・古典の現代語訳など、多彩な執筆活動を行う。
2002年、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』により小林秀雄賞を、2005年『蝶のゆくえ』で柴田錬三郎賞、2008年『双調 平家物語』で毎日出版文化賞を受賞した。『ひらがな日本美術史』
『上司は思いつきでものを言う』『BA-BAH その他』『小林秀雄の恵み』『巡礼』『橋』『リア家の人々』など著書多数。

「三種の神器」の登場、興奮すらできなかった
圧倒的な「テレビ鑑賞」体験

リニューアル前の常設展示室で最も新しい時代の展示が、1964年に行なわれた東京オリンピックに関する展示です。今回のリニューアルでこの一画は更に新しい時代の展示へと拡大されますが、まずはリニューアル前の展示を橋本さんとともに巡りましょう。足を踏み入れると真っ先に見えてくるのが、1950年代後半、人々の憧れの的となった「三種の神器(*)」(白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)です。

  • (手前から)
    「白黒テレビ 東芝14KD」
    (1962年 / 昭和37)東京芝浦電機株式会社 / 製
    普及型の白黒テレビ。
    4本の脚を付属している「コンソレット型」といわれる
    テレビ。
    「攪拌式洗濯機 日立TA-1A」
    (1954年 / 昭和29)日立製作所 / 製
    「電気冷蔵庫」
    (1959年 / 昭和34)東京芝浦電機株式会社 / 製

橋本:この丸みを帯びた洗濯機を今の若い人が見たら、食器洗い器か電気釜とでも思うかもしれませんね(笑)。洗濯機が登場するまでずっと、丸いたらいで洗ってきたものだから、その発想から抜け出ていないのです。当時は今のように家電量販店がありませんでしたから、電化製品というのは電器屋さんがわざわざ家までやってきて営業をかけるものでした。私の家にも営業が頻繁にやってきては、親がせっせと買い求めていましたね。うまいこと言いくるめられたのか、家にステレオが2台もありまして、まだ高校生だというのに自分用のステレオを持っていました。

1959年になると、皇太子ご成婚パレードが一つのきっかけとなり、各家庭にテレビが一気に普及していきます。早くから家にテレビが置かれていたという橋本さん、「テレビ鑑賞」という言葉があった時代を振り返ります。

橋本:この時代を舞台にした映画には、「テレビのある家に近所の人たちが集まってきてプロレスや野球を観る」シーンがありますよね。大抵、息を飲んで一気にわーっと騒いでいるのですが、実際には、あれほどわかりやすい興奮なんてありませんでした。正確には、テレビに呑まれてしまって、興奮すらできなかったのです。僕自身はスポーツよりもお笑いやアニメを観たかったのですが、家族から反対されてばかりで……。だから仕方なく、夕方に放送していた人形劇をよく観ていましたね。人形劇はテレビの早い段階から娯楽として放送されていました。後になって日本の人形浄瑠璃の歴史を体系的に学んでみると、人形を動かすという技術において日本のクオリティーは当初からとても高いことがわかったのです。

*「三種の神器」……昭和30年頃、急速に広がった家庭電化ブームを象徴する商品群として、電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビ(電気掃除機が入ることがある)の3種の電化製品を指してこう呼んだ。大卒男子の初任給が1万円だった時代に、テレビが20~25万、洗濯機が2~3万、冷蔵庫が5~6万円と大変高価だったが、経済の高度成長とメーカーの大量生産によるコストダウンにより急速に家庭に普及していった。たとえば、昭和30年には1%にも達していなかったテレビの普及率は、5年後には54%にもなった。

「ステレオ」黎明期の性能を懐かしむ

「三種の神器」が各家庭に出揃い始めると、趣味のための電化製品が次々と生まれていきます。ステレオもその一つ。江戸博に置かれているステレオは渋谷の団地で実際に使われていたものを譲り受けたものです。

橋本:昔のステレオには、音を反響させて、あたかもコンサートホールで聴いているような感じを作り出す残響装置がありました。実際は、コンサートホールというより風呂屋さんで聴いているような感覚でしたが(笑)。当時はまだ、レコード鑑賞といえばクラシック。その他に強いて挙げるとしても、ジャズかタンゴ程度くらいのものでしょう。いわゆる歌謡曲は、わざわざ鑑賞するものとしては認められていませんでした。夏に海水浴場に行けば流れているけれど、自分で買って聴こうと思う人はそんなにいませんでしたね。

  • 「コンパクトステレオ SE-1400」
    (昭和30年代/1955~64) 松下電器産業株式会社 / 製
    渋谷区内の団地で使用していたもの。ターンテーブルが収納式の薄型タイプとなっている。

「服は買うものではなく、仕立てるもの」だった時代の洋裁ブーム

終戦後、占領下の日本で定着したのが洋装でした。女性たちの間には洋裁ブームが巻き起こり、洋裁学校に多くの女性が通うようになります。洋服の仕立てを学ぶのは花嫁修業のためでもありました。江戸博には和服の生地で作ったワンピースが展示されています。

「ワンピース」(1948年 / 昭和23)
寄贈者が杉野学園ドレスメーカー女学院在学中に製作したワンピース。
母の着物をほどいて作った更生服。

  • 「実習ノート」(1948~49年 / 昭和23~24)
    寄贈者がドレスメーカー学院在学中に使用していた実習ノート。

橋本:当時、既製服は安物の証しだったので、デパートに行くと必ず、お客さんを採寸してから服を仕立てる洋裁師がいたものです。私の叔母も洋裁師で、自分の姉が結婚するときにはウェディングドレスを仕立てていました。我が家にも人台(衣服の制作に用いる人体の模型)がありまして、ある日、ウェディングドレスが立っていたものだから大変驚いたのを覚えています(笑)。「服は買うものではなく、仕立てるもの」という前提が崩れたのは、1950年代後半にスーパーマーケットが出始めて、衣料品を扱うようになってからでしょう。