東京の活力の源は、入り組んだ街の構造にアリ

「大東京鳥瞰図」

明治初期の銀座を後にして山田さんが次に目を留めたのは、1921年(大正10)に描かれた「大東京鳥瞰図」。地図にはライトが埋め込んであり、ボタンを押すと大学や映画館、寄席、新聞社、出版社などの場所が光るインタラクティブな展示です。山田さんが最初に押したボタンは……?

山田:やはり気になるのは出版社。僕もかつては勤めていましたから。こうして見ると、この頃から神田は出版の街だったことがわかりますね。紙は重いので昔は船で運んでいて、そのせいで神田川沿いに印刷所や製本所など出版関連産業が集まったと聞いた記憶があります。今でも、神田川沿いを歩くとその名残がありますよ。

「大東京鳥瞰図」を眺めると、当時の東京の中心が、皇居を中心とした、今の山手線の東側であったことにも気づかされます。

山田:皇居の東には、江戸時代から浅草や日本橋といった繁華街が形成されていましたからね。ただ、そのせいか東京は皇居より東が「下町」で西が「山の手」というイメージがありますが、実はそう単純ではありません。東京という街の最大の特徴は、中心部に台地と低地が複雑に入り組んでいて、「山の手」と「下町」が混在していることにあるんです。僕が住んでる文京区も、5本の指のように台地が伸びていて、高台の住宅街と低地の商工業街が交互に隣接しています。そして両者を結ぶ坂の斜面には、たいがい神社やお寺がある。これが江戸時代から続く東京の街の基本構造で、千代田区や港区あたりでも同じです。高台の「山の手」が住宅街で低地の「下町」が商工業街という構造自体は世界中の都市に共通ですが、ここまで高低が入り乱れている街は珍しい。だから江戸・東京では身分や職業の違う人々の交流が生まれやすく、そうした雑多性が街の活力源になってきたのだと思います。

東京随一の高層建築物・浅草のランドマークを見物

「凌雲閣(十二階)」
(復元年代:明治期 縮尺:1/10)

江戸博の東京ゾーンには、明治期後半から大正期にかけて賑わいを見せた街・浅草の当時の様子を伝える大型模型が二つあります。その一つが、1890年(明治23)に落成し、関東大震災によって倒壊するまで「十二階」の愛称で親しまれた浅草のシンボル「凌雲閣(十二階)」。その愛称のとおり、当時としては破格の地上12階の高層建築で、内部には世界各国の品物を売る物産店も並び、日本初のエレベーターが設置されていました。

山田:江戸博の東京ゾーンには、明治期後半から大正期にかけて賑わいを見せた街・浅草の当時の様子を伝える大型模型が二つあります。その一つが、1890年(明治23)に落成し、関東大震災によって倒壊するまで「十二階」の愛称で親しまれた浅草のシンボル「凌雲閣(十二階)」。その愛称のとおり、当時としては破格の地上12階の高層建築で、内部には世界各国の品物を売る物産店も並び、日本初のエレベーターが設置されていました。

凌雲閣の模型のそばには、当時の浅草近辺を撮影した写真も展示されていて、浅草のシンボルとしてそびえ立つ凌雲閣の勇姿を見ることができます。東京随一の高層建築物は、遠くからでもその姿を眺められました。

山田:十二階というと、僕はなぜか江戸川乱歩の世界を想像してしまうんですよ。怪人二十面相が塔のてっぺんから気球に乗って逃げていくシーンの挿絵を見たことがあるような気さえして。江戸博の展示物には当時の浅草のもう一つの人気スポット「日本パノラマ館」の資料もありますけど、これも僕の個人的な印象では「乱歩っぽい」。実際は、乱歩が少年探偵団シリーズを書き始めるのは、十二階もパノラマ館もなくなって久しい昭和10年代に入ってからなんですけどね。関東大震災前の浅草の、華やかさと猥雑さ、モダンさとレトロ感が入り混じった妖しい雰囲気が、僕がイメージする乱歩の世界にぴったり重なって、歴史を誤認させるんでしょうね。

  • 「凌雲閣」や「日本パノラマ館」の写真

日本初の映画専門の劇場に施された驚きの意匠、浅草の看板職人の技を堪能

「電気館」
(復元年代:1914年(大正3) 縮尺:1/10)

凌雲閣は、浅草六区(当時は浅草公園六区)のメインストリートを抜けた、北側の一角にありました。そのふもとに並んでいたのが、浅草の多彩な娯楽施設です。先ほど話に出たパノラマ館を筆頭に、古くからある芝居小屋、珍妙な見せ物小屋、寄席など様々なものが雑多に揃った繁華街でした。そこに明治30年代、外国から活動写真(映画)が入ってきて、日本で初めて常設館として活動写真を上映したのが、浅草のもう一つの大型模型「電気館」です。

山田:なにがすごいって、建物の飾り、意匠がすごいですね! 自由の女神像がとりつけられていたり、賑々しい電飾があったりする。とにかく派手。これは東京ではなく大阪のセンスですよ(笑)。

電気館は、はじめは電気仕掛けの見せ物で賑わっていましたが、1903年(明治36)に活動写真の常設館となりました。この模型はちょうど今から100年前、1914年(大正3)にイタリア映画『アントニーとクレオパトラ』が特別上映されたときの様子を再現しています。当時は、演目が変わるたびに、絵看板だけでなく建物の装飾まで変えていました。

山田:細かいところに目を凝らしてみると……虎の頭までついてますよ。やっぱり関西人の仕事か!? いや、当時はまだ阪神タイガースはなかったはずですね(笑)。絵看板の間に立つ柱の先が尖っているのは、演目に合わせて古代の剣や槍をイメージした意匠かな? 当時の看板職人たちの腕も楽しめますね。入口にある、上映時間を知らせる三角柱も面白い。三角柱だということは、『アントニーとクレオパトラ』は1日3回上映だったわけ? くるっと回せば次の上映時間が表示されるとは、なかなか気が効いたアイデアですね。

映画ファンも注目、昭和初期に人気を博した映画のラインナップ

電気館の模型の横には、浅草の活気を目の当たりにできる、昭和初期の電気館街を撮影した大判写真と、上映作品を宣伝するのぼり旗が飾られています。

山田:『大脱線 新婚前後』ってどんな映画だったんだろう?(笑) 『貝殻一平』シリーズも気になるなぁ。『何が彼女をそうさせたか』は高津慶子が主演した有名な映画ですね。これは映画ファンが見ても楽しい展示じゃないかな。その後ろにあるのは、昭和初期の浅草六区の写真ですか。街を歩く人を見てみると、浅草は昭和初期になってもまだ和装の人が多いですね。職種や服装によってかぶっている帽子が違うのも面白い。スーツ姿のサラリーマンは中折れ帽、ハッピ姿の職人はハンチング。そして、今と違って女性の姿が少ないですね。まぁ、当時はこんな盛り場を女性がうろうろしていたら、確実に不良と呼ばれたでしょうからね。

これら浅草にまつわる模型展示も、リニューアル後はさらに豪華になります。凌雲閣や電気館には照明の演出が加わるほか、浅草公園六区の街並を再現した展示も増える予定です。